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Wednesday, May 27, 2020

はらだ有彩 東京23話 目黒区編:東京新聞 TOKYO Web - 東京新聞

古典の人情噺を現代版にリブートする話題作。イラストやテキスタイルデザインも手がける多彩な作家、はらだ有彩さんが、古典の人情噺を元に、現代版としてリブートする話題の新感覚ショートショート。 東京23区を舞台に繰り広げられる人情噺を、軽やかなタッチで描き下ろします。

 

薄手のコートを着ようか、ジャケットで済まそうか。外套の軽さを悩む贅沢は、清子を爽やかに急かす。近ごろは随分と暖かい。瑞々しく透き通った春の焦燥が胸を吹き抜け、今すぐに走り出したくなる。だめだめ、ランニングするなら準備運動が必要不可欠だ。走る代わりに窓を開ける。すぐ閉める。また開けてみる。うん、今日あたり、いいかもしれない。再び窓を閉める。今度はしっかり施錠する。

 

「ちょっと、ちょっと、お父さん」

 

やたら張り切っている清子に小突かれ、了一はソファーに寝そべったままウウン、と唸った。

 

「なんだ、めかし込んで。どこか行くのか」「行くのかじゃないわよ、あなたも行くのよ」「なんだ、なんだ」

 

妻が出かけるなら昼は近所の蕎麦屋へでも行くか、あるいは買い置きしてあるちょっと良い冷凍食品を試してみるか…と話半分に考えていた了一は、突然身に覚えのない予定を提示され、読みかけの本から顔を上げた。著名なジャーナリストの半生について書かれたハードカバーの向こうで、淡いサーモンオレンジ色のセーターを着た清子が忙しくハンドバッグの中身をかき回している。

 

「川まで出かけていって、何か適当に買い食いしちゃいましょうよ。それから目黒区美術館にでも」

 

清子はバッグから探し当てたスマートフォンをぐいぐいと見せつけてくる。了一が視線を落とすと、画面には丸く太い文字で《中目黒・桜まつり》の文字が示されていた。

 

「川ったって、混んでるんじゃないのか」「混んでるでしょうねえ、平日でも学生さんは関係なしだもの」 

 

二人は娘の美香のことを思い出していた。美香もよく大学をサボってフラフラしていたっけ。

 

「そんな人の多いところへわざわざ行かなくたっていいじゃないか」「わざわざ行ったっていいじゃない」「今日は布団を干そうと思ってたんだ」「布団なんて2秒で干せるでしょうが」

 

表面上渋ってみせる了一は、その実、シャツにセーターを着込み、ベルトまでしめていた。今日あたり清子が思い立つだろうと分かっていたのだ。近ごろは随分と暖かいから。清子は夫の準備万端の装いを深く追求することはなく、ほらほら、そのままでいいから、と言い残し、ぱたぱたと寝室へ向かう。先週新調した口紅の存在を思い出したからだ。娘が20年近く勤めている外資系化粧品メーカーの春の新色は、パッケージに「フランボワーズ・ギモーヴ」と書かれていた。ギモーヴって何だっけ、と清子は考える。外国の、乾いたマシュマロみたいなやつだったかしらね。元同僚の木下さんのお土産で食べた気がする。なるほど記憶の中の菓子のように、ややマットな仕上がりである。ああ、春!リビングへ戻ると、了一はすっかり帽子をかぶりながら、今度は「今日はジムの日だったのに」などとぶつくさ言っていた。嘘つき。ジムの日は月・水・金のくせに。しかし清子は黙っていた。そんなことより、コートとジャケットを決断しなくてはならない。

 

日差しはぽかぽかと、頬だけがほんのりと冷える。いつもなら20分もあれば川沿いへ出るが、気に入りのデジカメを持参した了一がお寺の植え込みやら、古いクリーニング店の看板やらをパシャパシャやるので中々辿り着かない。定年後、住んでいた戸建てを売って二人暮らし用のマンションへ越し、数年が経った。川の方はすっかり若い人たちの街だが、自宅の周辺はまだ古い家々が多く残っている。清子は今年で71歳、了一は74歳。3年後に迫った金婚式に旅行でも行く?と、この前会った時に美香が聞いてくれたが、清子はもったいないからと笑って辞退した。それにしても、50年!

 

50年前、清子の職場の同僚だった了一はモテにモテていた。職場は医薬品メーカーのサポート業務をする、今で言うBtoB企業で、日本橋にオフィスがあった。背が大きく、無骨な顔で、皆はそこが良いのだと言う。「了一さんのお父様はお医者さんをされているんですって」「知ってる、世田谷の大きな病院のご子息なんでしょう」「あら、私は田園調布の開業医だって聞いたけど」という噂が給湯室でしばしば飛び交ったが、清子はそんな噂を心底馬鹿みたいだと思っていた。男女雇用機会均等法どころか勤労婦人福祉法もまだなかった時代である。高校の就職斡旋で「できるだけ長く働き続けたいんです」と相談したときに不思議そうな顔をされたように、入社して3年経つ頃には清子は女子社員としては中堅になっていた。だって馬鹿みたいじゃないの、というのが清子の口癖だ。噂話も、お茶汲みも、誰かに頼らなければ暮らせない人生も、苦労を知らなさそうなお坊ちゃんも、清子にはナンセンスだった。

 

だから了一に声をかけられたときには、何かの間違いだろうと思った。私なんかよりよっぽどあなたのこと好いている女の子、事務所にたくさんいるわよ。そんな言葉も出てこないほど驚き立ち尽くしていた。

 

結局、次の週末、清子は了一と目黒川を歩いていた。等間隔に桜が植えられた歩道は、もちろん今のようにライトアップなどされていないが、了一は色んな川を見て歩くのが趣味だと言う。花見の季節だから、よかったら散歩に行きませんか、というのが誘い文句だった。なぜ申し出を受けてしまったのだろうということばかり、清子は考える。了一のことを好きでもなければ嫌いでもなかった。というか、よく知らなかった。風がまだ少し寒い。ぽつぽつと会社の内輪ネタなどを交わし、沈黙が訪れてから結構な時間が経ってしまった。二人の間に流れるぎくしゃくした空気に、ふと甘い匂いが混ざる。体格の良い男性がリヤカーを停めて焼き芋を売っていた。

 

「あっ、お芋!」「芋?」

 

やや「助かった」という後ろ向きな気持ちも手伝って、清子は明るい声を上げた。反対に了一はいぶかしむような顔を向ける。

 

 

「焼き芋屋さんが出てるんだわ。私、大好きなんです。食べましょうよ」「はあ、しかし」

 

なぜか了一の足取りは重かった。こんな良い匂いを前に立ち止まることができるなんて、清子には信じられない。聞けば、焼き芋に限らず、一度も屋台のものを食べたことがないと言う。噂通り、了一は本当に筋金入りのお坊ちゃんなのであった。

 

「うっそでしょう!」清子が素っ頓狂に叫ぶ。余りに驚いて、会社で使っているような敬語がどこかへ吹き飛んでいってしまった。「騙されたと思って、食べてごらんなさいよ、絶対美味しいんだから」「いや、でも」

 

了一は往生際悪く渋る。気が短い清子はいらいらしてきた。お腹が空いていた。ええい、煮え切らない坊ちゃんだこと。歩きながら食べるのがそんなに恥ずかしいのだろうか。美味しいのに。

 

「こんな、女子供が食べるような甘味を、大の男が往来で食べるわけには」

 

ぼそぼそと尻込みする了一に清子はすっかりくたびれてしまった。話すのをやめて、一人でずんずんと歩き出す。慌てた了一が後を追う。屋台のおじさんに挨拶し、清子は芋を二本買った。気の良いおじさんはニコニコと世間話などしながら、手際よく芋を包んでくれる。閉じられたばかりの新聞紙をがさがさと捲りながら、一本を了一へ渡す。

 

「芋・栗・南京なんて言っちゃって、ばっかみたい。あなた、人生半分くらい、損してるわよ」了一は黙って包みを受け取った。あ、食べるんだ。少し意外だった。食べなかったら自分が二本片付けなくてはならないので、それはちょっときついなあと清子は考えていた。しかし、もし一本しか買わずに、了一が興味を示したら半分こしなければならない。自分の分の一本は死守したかったのであった。口を変な風に曲げた了一が明らかに慣れない手つきで新聞紙を解く。真ん中で割って食べるのよ、と教えるとなぜか縦に割ろうと奮闘するものだから、笑ってしまった。ひとしきり匂いを嗅いだり、しげしげと見つめたりして、冷めるからと急かし立ててようやく黄色い果肉を口へ運んだ青年は、目を丸くして小さく叫んだ。

 

「こんなに美味しいもの、食べたことない」

 

鮮やかなピンクと白のぼんぼりが連なり揺れている。きっちりと半円を描く赤い欄干に、かわいい爆竹のように吹き爆ぜた桜の花びらが覆い被さる。想像してはいたが、物凄い人出だ。若い人たちはやっぱり元気だと感心する。了一はもう文句を言うふりをするのを忘れて、ひたすら写真を取りまくっていた。後ろの人に迷惑だからと清子がその袖を引っ張る。人々のざわめきに、無数の食べ物の香りが入り混じる。ほろほろと柔らかい花がその賑わいに合わせて揺れる。橋を越えたところで了一がにわかに立ち止まった。だから、後ろの人に迷惑だってば、お父さん。

 

「確かこの辺なんだよ、いつも」「なに、なに」「移動販売車が来てるんだよ、川沿いは屋台ダメだから、ちょっと離れてるって言ってただろう、去年も」

 

ずんずん進んでいく了一を、慌てて清子が追う。喧騒から一本曲がった道路のすみに白い軽トラックが停まっていた。カラフルな暖簾に、渋い筆文字で大きく「石焼き芋」と書かれている。

 

「えー、もう甘いもの食べちゃうの」「いいんだよ」「今から色んな出店、回るのに」「先に甘いもの食べたら駄目って道理はないだろう」

 

結局、良い匂いにつられて二本買ってしまった。先に辛いもの食べてからの方がよくなかった?ワインだって飲むかもしれないし…と誘惑に負けたことを後悔する清子に、了一が首を振る。

 

「俺は芋を食うならここの屋台でって決めてるんだ」

 

「ここ」というのは、ちょうど、半世紀前に清子が了一に新聞紙の包みを押し付けた場所であった。あきれた、と清子は肩をすくめる。あの時の大将が今も焼き芋屋さんやってたら、とっくに百歳を超えているわよ。車だって、似たような場所に停まってるだけで、毎年違う人じゃない。 とは、言わなかった。メインストリートへ戻り、人波に揉まれながらほくほくと熱い芋を頬張る。温かい紙袋はしっとりとふやけて始めていた。尽きることなく揺れこぼれる花びらが川へ落ち、ぬるい水面を緩やかに埋め尽くす。降り積もるそばから流されていき、流れきらないうちにまた積もる。早々に食べ始めている清子に続いて、了一も二つに割った断面に齧りつき、満足そうに言った。

 

「うん、うまい。やっぱり焼き芋は目黒に限るんだよ」

 

 

覚え書き・《目黒の秋刀魚》

 

日本で最も有名な落語の一つ。子どもの頃、住んでいた商店街に落語家の方が来て《目黒の秋刀魚》を演ってくれたのですが、東京の地理を知らなかったので「へえ~、目黒は秋刀魚の産地なんだ」と感心していました。「目黒」の厳密な場所については諸説ありますが、目黒駅では毎年9月に駅を挟んだ二箇所で「さんま祭り」が開催されます。目黒駅の住所は品川区で、ややこしいですね。お殿様の世間知らずな発言を笑うお話ですが、遠くへ出かけていって、経験したことのないものを食べるのはやはり格別です。その味は思い出になったとき、ますます強く香るのかもしれません。

 

はらだ有彩

 

関西出身。テキスト、テキスタイル、イラストレーションを作るテキストレーター。2014年から、テキストとイラストレーションをテキスタイルにして身につけるブランド《mon.you.moyo》を開始。2018年5月、日本の民話に登場する女の子の心情に寄り添う本『日本のヤバい女の子』(柏書房)刊行。「wezzy」「リノスタ」などウェブメディア、『文藝』『東京人』『装苑』など雑誌への寄稿。

 

◆はらだ有彩公式サイト : https://arisaharada.com/
◆Twitter : @hurry1116
◆Instagram : @arisa_harada

 

 

これまでの「東京23話」

 

加藤千恵(歌人・小説家)

 

松田青子(翻訳家・小説家・童話作家)

 

山内マリコ(小説家・エッセイスト)

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May 27, 2020 at 12:38PM
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