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Friday, August 14, 2020

戦後75年茂くんの夏 戦後の食糧事情 毎日、3食がサツマ芋 - 中日新聞

1946年の正月に、焼け跡のバラックで遊ぶ子どもたち=浜松復興記念館提供

1946年の正月に、焼け跡のバラックで遊ぶ子どもたち=浜松復興記念館提供

  • 1946年の正月に、焼け跡のバラックで遊ぶ子どもたち=浜松復興記念館提供
  • 西田茂さん

 終戦直後、食料事情は最悪だった。真っ白いご飯なんて、特別な祝い事がある日しか食べられなかった。

 お米に麦を二、三割まぜたご飯があれば良い方で、「おじや」や「すいとん」が主な食べ物だった。「おじや」は、量を増やすために、ほんの一握りのお米に、野菜や芋などを一緒に煮込んだ「おかゆ」である。

 「すいとん」はメリケン粉に水を加えてよく練り、「だんご」にしたものと、菜っ葉など野菜の切れ端がプカプカ浮いているだけの「スープ」である。これだけではすぐにおなかがすくので干し芋や、いった豆などで空腹を満たした。

 サツマ芋が大豊作だった時は連日、サツマ芋、サツマ芋。サツマ芋ばかり、嫌になるほど食べさせられた。まずは「蒸(ふ)かした芋」、薄く切って干した「干し芋」、細かく角切りにしてご飯に入れた「芋ご飯」、パン焼き器で「芋入りパン」も焼いた。毎日、朝も昼も晩も、サツマ芋だったが、おなかがすけば何でも食べられた。

 終戦後三年目に敏雄が生まれ、わが家は八人家族となった。食事のときは、何がどれだけ量があるのかを一瞬のうちに見て取って、自分が食べてもよさそうな分量を決める。お代わりをすると弟たちの分がなくなりそうなときは、母に「お代わりは?」と勧められても、僕は「おなかがいっぱい」と言って我慢した。

 ご飯の最中にご飯粒をテーブルの下にこぼすと、必ず指でつまみ上げて食べた。両親はいつも言っていた。「お百姓さんたちが、丹精込めて作ってくれたお米を、一粒たりとも粗末にしてはいけません。感謝して食べなさい。ご飯をこぼしたままにしておくと眼(め)がつぶれるよ」 僕は今でも、こぼしたご飯粒は全部拾って食べる。

 当時、砂糖は貴重品でほとんど手に入らなかった。何かの幸運に恵まれて砂糖が手に入ると、指につばをつけ、砂糖の粉を少しだけくっつけて、口の中へ入れてその甘味を楽しんだものである。あめやキャラメルなど、甘いものにいつも飢えていた。

 浜松航空基地にも、アメリカ兵が駐留して来た。兵士たちを運ぶトラックの列が続いた。道端で手を振っている子どもたちへ向かって、兵士がチョコレートやキャンディーなどを投げてよこした。子どもたちはわれ先に拾った。

 アメリカ製のチョコレートの甘さは、格別であった。チョコをひとかけら指につまんでその匂いと甘さを楽しみながら、少しずつかじる幸せはまさに、天国にいるようであった。

◆人の命を大切に生きてほしい

 執筆者の西田茂さん(81)=写真、浜松市中区=からメッセージが本紙に届いた。一部を抜粋して紹介する。

 中日新聞に「戦後七十五年」の投稿募集の記事を見たとき、小学一年生だった時の戦争体験を書いた文章が残っていることを思い出しました。

 戦争を知らない世代が増えている中で、それを読んでいただければ、いかに戦争とは悲惨なものかが分かってもらえるはずだと考えました。後世のために、戦争体験を語っている方々もおられますが、次第にその数も減っています。十年後くらいには、一人もいなくなることでしょう。

 国と国とがさまざまな理由から戦争を起こす悲劇が、繰り返されています。個人的な理由から殺し合ってしまうこともあります。理不尽な事件に巻き込まれ、非情な死を迎えることはどうしても避けたいことです。皆さんには、自分や周りの人の命を大切にして、生きてほしいと思います。

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